小さな失敗と小さな災難

小さな失敗と小さな災難

猫のいた場所に落ちていた「10円」

まだちょっと薄暗い朝の5時頃、アパートの自宅を出ようと玄関のドアを開けると、しとしと雨が降っていた。

雨音はほとんど聞こえず、ドアを開けるまで雨が降っている事に気づかなかった。ちょっと躊躇したが、雨が強く降り出す気配もなさそうと思い、駅までの7、8分程度であれば傘無しでも大丈夫であろうと出かけた。

途中、駐車場の隅に猫が身体を丸めて佇んでいた。

こんな雨の中、濡れるのにと思いつつ猫に近づいてみると、こちらに気づいた猫はいきなり身体を反転させると、側にあったブロック塀を駆け上がりどこへともなく消え去った。

な~んだと思い、再び駅に向かおうとしたが、猫がいた元の場所に何かが落ちているのが見えた。興味を持ってその何かの元まで行くとそれを手に取った。

「10円か」

雨で濡れた10円をしげしげと眺めたが、特に変わった事も無く、交番に届けるべきか(でもねぇ)と思っていたところ、その駐車場にクルマが入ってきたので、部外者がいては何かと勘違いの元だと思い、10円を無意識のうちにジーンズの後ろのポケットに突っ込み、慌てて駐車場を後にした。

そしてそのまま駅に向かい、電車に乗りバイト先に着く頃には、拾った10円の事などすっかり忘れていた。

ところがその日以降、なぜかひとつ一つは取るに足らない事ではあるが、1日1回必ず小さな失敗をしたり、災難に遭ったりするようになった。

例えば、寝過ごしたわけでもないのにバイト先の最寄りの駅を乗り越したり、逆に自宅の最寄り駅を(もちろん起きている状態でなのに)なぜか乗り越したり、コミュニケーションツールで誤変換に気づかないまま相手に送信して変な誤解を招いたり、打ち水をしているオヤジからいきなり水をかけられたりなど、どれも結果大事には至らなかったが地味にへこむ失敗や災難が続くようになった。

ただその時は、なんか続くなぁとは思っていたが、たまたま重なっただけとして特に深くは考えていなかった。

それから10日ばかりが経ったある土曜日に、何故か「みたらし団子」が無償に食べたくなったため、どうせならおいしいと評判のお店を探して、そこに行ってみようと思い立ち早速スマホで調べてみると、結構良さげなお店が見つかり、早速足を運んだ。

お店でみたらし団子を3本買い、予め調べておいたお店から歩いて5分ほどの公園に移動し団子を食べた。醤油の味がキチンと残る甘辛さで、タレはとろみ少なめのさらさら系で、好みにぴったりのみたらし団子だった。買った3本をあっという間に平らげて、さてとこの近所をちょっと探索してから帰るかと公園のベンチから腰を上げたところ右斜め前方に鳥居の一部が見えた。

まずは、あそこにお参りをしてから…と考えていると、いきなり先程までの(とっても美味しい)みたらし団子を食べた時の幸福感や高揚感を押しのけて、どんよりした気持ちが湧き上がってきた。

自分自身でも、得も言われぬ気持ちの変化に戸惑いながらも、なぜか芯の部分では神社に是非とも行かなければという思いがあり、なんとか神社に辿り着き、手水舎に向かっている途中で、無意識にジーンズの後ろポケットに手を入れてみた。

「あぁ、忘れていた!」という驚きと、「これか!」という閃き、というか天啓があった。

手と口を清めると、拝殿の前に立ち賽銭箱に例の10円を投げ入れた。

しかし、その時の抵抗感というか罪悪感というのは、凄かった。頭では分かっているのに、もう一つの何かが必死に抵抗している感じで、10円を投げ入れる瞬間には物理的に右手を後ろに引っ張られる感覚さえあった。

無事お参りを済ませると境内をぐるっと見て回り、この神社が「縁切り神社」だという事が分かり、何故かすとんと腑に落ちた事を覚えている。

それからというもの、あれほど続いていた失敗や災難がほとんどなくなり、頻度としては以前の状態に戻った感じだ。そして、もしかしたらあの10円が──と根拠無く時々考えている自分がいる。

あの駐車場の前を毎日のように通るが、あの時見た猫を再び見る事は今のところない。但し、たまにお金が落ちている事はあるが、見て見ぬふりをして、決してそのお金を拾う事はしない。

思う。あれが10円じゃなくて500円だったら? いやいや、一万円札だったら? 失敗や災難は金額に比例するのだろうか?と。

もちろん、確かめる気はさらさらないが。

これはフィクションです