刀自

刀自

噂で聞いた人物像とは違う

ある夏の日の夕方、路地で遊んでいた5、6歳くらいの女の子がいた。私は路地を抜けた先にある、元々はこのあたり一帯の地主であった家の刀自に呼び出され、屋敷を訪問するところだった。

「こんにちは。ちょっと通らせてもらうよ」

道路に熊のぬいぐるみらしき絵を描いていたその子は、顔を上げ「こんにちは」と元気よく私に返すと、かわいらしい笑顔を見せた。私は、絵を踏まないように気をつけながら、女の子の横をすり抜けた。

その際、元気よい挨拶と笑顔の印象とは全く違う、何か希薄な感じがして一瞬訝しんだが、まだまだ粘りつくような暑さで、地面からの照り返しもきつく、それのせいだと思って先を急いだ。

訪問先の屋敷は、刀自が独りで住んでおり、通いのお手伝いさんが3名ほどいると聞いている。以前は大手の証券会社を使っていたが、ある時零細証券会社のウチに全取引を一任された。はじめは、大口顧客の獲得に喜んだウチの上層部であったが、すぐに眉間に皺を寄せられる存在となった。

気性が荒く気難しく、これまでの5人の担当者のうち3人は、3ヶ月を待たずに交代を要求され、ひとりは最初の訪問で別の担当者に交代する様に告げられた。一番長く続いたひとりも、刀自の担当となって8ヶ月を境に会社に来なくなりそのまま失踪した──そんな事だから大手から切られたのだとか、ウチだと金の卵だから敢えてこちらに鞍替えしたのだとか、担当になれば成績は安泰だけどそこまでしてやりたくない、といった話が、社内では公然と語られていた。

そして現担当者の私は、刀自相手に小一時間ほど世間話をしただけで具体的な話には至らず、そのまま帰路についた。先方の呼び出しで伺ったにも関わらず何も進まなかった事、世間話とはいえ相手が相手だけに精神的に非常に疲れた事、さらに黄昏時という事も相まって、私は来た道を重い足取りでとぼとぼと引き返していた。

しかし、刀自の担当になってからのここ半年の状況を考えると、気難しくはあるが、噂で聞いていた話とはかなり人物像が違うし、社内では刀自担当という事で、いつの間にか私まで不可侵な存在となっており、5回に1回は大きな金額が動くので、いつもであれば気にするような事でもないのだが、今日に限っては異様に気持ちが沈んでいた。

程なくして、先ほど女の子と出会った路地に辿り着いた。

辺りからは夕餉の支度の音が聞こえ、魚を焼く香ばしい臭いも漂ってきており、思わずおなかが鳴った。周りには誰もいなかったが、ちょっと気恥ずかしくなり先を急ごうとしたところで、はたと気づいた。

「そういえば、絵は…」

行きしなに見たはずのぬいぐるみの絵が、きれいさっぱりなかった。女の子は時間が時間だけに自宅に戻ったのだろうが、描いた絵までも消えているとは。しかも、わざわざ消したにしてはその痕跡も見つけられず、狐につままれたとはまさにこの事のような気がした。

ただ、その時点では「そこそこ昏くなっているし、単純に痕跡を見逃したのだろう。地面に這いつくばって痕跡を探したわけでもないし」といった感じで、不思議な事だとは思いつつもすぐに切り替えて会社を目指した。そして会社に着く頃には、絵の事も女の子の事もすっかり忘れていた。

女の子の事を思い出したのは、それから10日後である。刀自の呼び出しで屋敷に向かう途中の路地で、その子に再び会ったからだ。それから3ヶ月の間に4回ほど刀自から呼び出しを受ける事になるが、その度に女の子と出会う事になる。

「最近、引っ越して来たのかな」と、出来るだけ気軽に考えようとしつつも、何か漠然とした不安があった。言葉には言い表せる事の出来ない何かが。

そして今日、またもや刀自に呼び出され屋敷に向かっている。あの路地に差し掛かったところで、自分でも驚くくらい緊張したが、そこには女の子はいなかった。

「今日はいない」とつぶやいて、心底安心しそこを足早に過ぎる。やがて刀自の屋敷に着くと、昼間は開けっぱなしになっている門に足を踏み入れた。

「こんにちは」

吃驚した。門扉の右手の陰に待ち構えたように、例の女の子がしゃがんでこちらを見上げていた。

「えっ、なぜここに。この家の子」と聞く私。

「そうだよ」と答える女の子。

「でも、ここは刀自…お婆さんしか住んでないはずだけど」と、戸惑う私。

「遊びましょう」と、女の子。

絶句し固まっていると、玄関の開く音がした。助けを求めるようにそちらを見ると、能面のような顔をした刀自が立っていた。

女の子には一顧だにせず、こちらをじっと見つめている刀自。思わず私は視線を逸らすと、門扉の陰に再び目を向けた。

誰もいなかった。慌てて今度は玄関の方に目をやる。そこには、私と同じくらいの背丈になった門扉の陰にいたはずの女の子がいた。

悪い夢でも見ている気分だった。何がどうなっているのか分からない。夢なのか、暑さにやられたのか…と考えていると、女の子の背丈が無性に気になり、その事に気づくと自分の周囲をぐるりと見た。

そう、女の子の背丈が私と同じになったわけではない。私が女の子と同じ背丈になったのだ。段々と私自身から何かが抜け落ちていく気がする。気持ちだけは、ふわふわと心地好い幸福感で満たされている。

「幸福感…こう…ふく…あれ、刀自はどこに…とじ……、何故ここに来たのだろう。株…証券…しょうけん…。いや、遊びたいな。そうだ遊びましょう…ぼくも遊びたい…お絵かきがいいな」

最後の最後、浮き足だったわたし…ぼくの感覚の中で現実感をもった声が響いた。

「ごめんね、こうしないと童子がいなくなるから」

これはフィクションです