突き当たりの部屋

突き当たりの部屋

忠告

学食で遅めの昼食を取っていると、後ろから声を掛けられた。

声で何者か分かったが、一応礼儀として徐ろに振り向き「おう」と応じ、「早朝から用事でも」と言いかけた所で、声を掛けてきた藤澤はこちらを睨め付けつつ、僕の向かいの席に座った。余りの眼力に気圧された僕は、言葉を飲み込んだ。

藤澤は改めて僕を見ると、こう言い出した。

「あの部屋に住むのは止めろ。隣の部屋のあれは何だ。あれに気づいてよくよく観察してみると、かなり浸食されている。一刻も早く引っ越せ」

普段からぶっきらぼうに話す藤澤は、付き合いが浅いと常に不機嫌だと誤解されがちだが、この時ばかりは誤解でも何でもなく、万人が聞いても不機嫌どころか、怒っていると分かるような怒気が含まれていた。しかし怒らせるような心当たりがない僕は、かなり混乱した。

怒らせるような何かをしたかが気にかかり、耳は反応しているが頭が反応できず、正直彼は何を言っているのか、理解できずにいた。

「どういうこと、意味が理解できないのだが」たっぷり10秒もかけて捻り出した言葉である。

相変わらず鋭い眼光で顔色ひとつ変えてはいない藤澤であったが、そこそこの付き合いのある僕には、その中にちょっとした変化を見て取った。話が性急すぎたと反省したのか、ただ単に怒気を含んだ物言いにばつの悪さを感じたのかは知る由もないが。

「ちょっと待て。飯を食い終わってからきちんと話す。この後時間はあるだろう」そう言うと彼は丼を持ち上げ、無言で食事をはじめた。僕の方も居心地の悪さは感じつつも、食事半ばだったため同じように無言で付き合った。

食事が終わると「河岸を変えよう」との藤澤の言葉で学食を後にし、そのまま彼の下宿に移動した。道中気まずい雰囲気の中、始終互いに無言だった。

藤澤の部屋に通され「昨夜はどうだった」という彼の言葉で、僕が先ほど食堂で言いかけた言葉を思い出した。

「どうもこうも、確か6時過ぎに目が覚めたら既にいなかったので、えらく早い時間に用事でもあるもんだと思ったが、何かあった。それとも僕が何か怒らせるような事でもしたかな。酔っていた事は言い訳にしたくないが、寝入る寸前の事は酔っていてあまり覚えていないんだ。すまん」

「いや、そうではない。俺も酔っていて1時過ぎ前には寝たが、4時頃おかしな音を聞いて目が覚めた。そこからは悪寒がして居ても立っても居られない状態になり、君を起こそうと身体を揺すり頬を叩きもしたが無駄だった。どうやら俺は好まざる客だったようで、そのまま部屋に留まっていたのでは危ないと判断し、申し訳ないが一人で逃げ出した」

「逃げ出した」という言葉に虚を突かれた。僕が知る藤澤の為人からは想像出来ない言葉であったからだ。そして、彼の表情には忸怩たる思いが色濃く出ていた。全容ははっきりしないが、何かしら良くない事が起こった、怒っているらしいということは理解できた。

「藤澤が逃げ出すほどの事が起こっているようだね。ただ、僕の部屋でおかしな音とは具体的には何だろう。あそこに住みだしてかれこれ半年になるが、そんな音は聞いたことないし、悪寒は体調を崩した時にあったようななかったような」

「そうか、やはり君は聞いた事がなかったか。そんな事だろうとは思っていた。元凶は廊下奥の部屋だね。大家からは何か聞いてないか」

「隣は大家の息子の部屋で、今は神戸かどこか西の方で一人暮らしをしていると聞いている。それで、確か4年後に戻ってくるので部屋はそのままにしてあるらしく、入るなと言われている。もっともその部屋は入るも何も、引き戸は固く閉ざされていて。嗚呼、開かずの間ということか」

藤澤は無言で頷いた。

遭遇

その後、藤澤から改めて隣の部屋の危険性を告げられ、引越を急ぐように念を押された。

その場では首肯し藤澤の下宿を後にしたものの、未だ半信半疑であった。帰宅途中幾度となく、「悪霊、怨霊の類いとは」と独り言ち、突然降って湧いた人外の話しに頭は混乱し、足取りは重かった。なんとか夕刻過ぎに下宿先に戻ると、そのまま二階の自分の部屋に向かったが、階段を上がりきると否応なしに、例の部屋の引き戸が目に入った。

下宿の二階には計三部屋あり、階段を上がりきると廊下がそのまま真っ直ぐ伸びている。その廊下の右手に二部屋が並び、突き当たりが例の開かずの間という配置だ。僕に割り当てられた部屋はその開かずの間の手前、二部屋並んだ奥の方の部屋で、一番階段に近い部屋は物置となっている。

元々割り当てられた部屋より奥には興味がなかったが、最初に奥の部屋を見たときから、片引き戸には掛け金が三箇所取り付けてあり、それぞれが南京錠でしっかり施錠してある事には気づいていた。下宿人とはいえ他人がいる以上、防犯のためだろうと至極当然のように受け入れていたし、ここに住みだしてこっち、その件で余計な詮索をする事も全くなかった。藤澤の話を聞くまでは。

僕は廊下を進み、自分の部屋に入ろうと身体の向きを変え手を引き戸に掛けた。しかし今や僕の興味は、今いる自分の位置より半間ほど奥にある開かずの間にあった。ふらふらとその場を離れ、件の部屋の前に立った。

引き戸に耳を押し当ててみるも、話し声はおろか、人の気配さえしない。試しにと引き戸に手を掛けるが、戸は“遊び”さえもなくびくともしない。引き手と反対側にも何かしら施錠用の細工がしてあるようだ。

自分でも吃驚するほどの冷や汗をかいている事に気づき、少々苦笑いをすると部屋に戻ろうと振り返った。

視界の下側に、髪の毛のような物が見えた。

反射的に視線を下げると、寄り添うような至近距離に少年がいた。頭は僕の腰辺りにあったため、ほぼ真上から少年を見下ろす状態であった。

息を呑むとはまさにこの事で、僕は、呼吸も忘れてそのまま身じろぎひとつ出来ずにいた。少年は徐々に顔を上げはじめ、見てはいけないとは思いつつも、顔も背けられず目を瞑る事もできずにいた。心の臓を鷲掴みにされつつ、目の前の少年が発していると分かっているのに、笑い声そのものは背後の部屋から聞こえてくるという感覚に支配された。そして、ここで記憶は途絶えた。

次に記憶があるのは翌日の早朝で、自分の部屋で布団に入っている状態で目覚めた姿だった。服装は、前日の外出着のままであったが。

飛び起きた僕は、前日の夕刻何があったのか聞きに、大家であるご夫婦の元に行った。しかし彼らは、哀しそうな表情で「申し訳ない」と連呼するのみで埒があかず、僕の方もどこかで「悪霊・怨霊なんて」という“常識”と、禁止されていた行為を破った結果によるものという事もあり、強く出ることが出来ずに仕方なく下宿を後にした。

解決

学校で藤澤を見つけると、今度はこちらから声を掛けた。

彼は僕の顔を見ると、眉間に皺を寄せ苦々しい表情をしつつ「そういう事か、半分は俺のせいだな。直ぐに俺の下宿に来い。10日程度なら泊めてやる。その間に次の下宿先を探せ」と言ってきた。

相当非道い状況に陥っている事は身に染みていた。僕は住まいの確保を優先し、一週間後新たな下宿先へ藤澤を招待した。

「ここは大丈夫そうだな」そう言うと彼は、座卓を挟んで僕の反対側にどかりと腰を下ろし、「あの下宿の事を調べてみた。しかし、深入りすると“木乃伊取りが木乃伊”は確実なので、中途半端なのは否めないが仕方がない」と話し出した。

僕の心は非道くざわついた。

「まず、あそこの息子は四歳で事故死している。父親の不注意のようだ。しかし、母親がその現実を受け止められなく、文字通り死んだ子の年を数えているらしい。近所の古い住人にはそこそこ知られている話のようだが、人付き合いなどには問題なく、ご近所から異端視されているわけではないという事だ」

ご子息の死は半ば予想したことであった。そして「そんな家に下宿してたのか」と僕は嘆息した。

「ところで、下宿人を募集したのは2年前かららしいが、最初の借主がなんと君だ」

藤澤はここで、何かを言いかけて言葉を呑み込んだ。僕は敢えて何も言わず次の言葉を待った。そして、あくまでも推測であると断った上で、再び話し出した。

「簡単に言うと、人身御供だよ。同年代の者の肉体を供物とする事で、亡くなった息子が甦るという妄執に取り憑かれたのではないかと思われる。もちろん、同年代であれば誰でもいいというわけではなく、色々吟味して君をようやく見つけた、といったところだろう」

「逆では。悪霊なのか怨霊なのかは分からないが、そうなってしまった息子の要求に、ご夫婦が応えた結果だと思えるが」彼の言葉に重ねるように、僕は疑問を口にした。

「違うね。現に君が見たというあれは、君の腰の高さ位までしか背丈がなかったんだろう。仮にあれが要求したならば、器と成る肉体は子供でなくてはならない。つまり君を選ぶという事は、息子の叶わなかった成長を願っている側の発想なんだ」

「そんなもんかね」

「納得できないかい。仮にあれが主体だった場合、君はもっと早い段階で取り込まれており、俺との関わり自体がそもそもなかった可能性が高い。そして、あれと夫婦との思惑の違いが、今この部屋に君が無事でいられる理由と言ってもいい。あの夫婦は何十年もの間、息子の成長を何度も何度も夢見てきた。彼らの終着点は、自分たちの息子が成人する事だった。対して、あれは何なのか実際不明だ。かつては夫婦の息子だった“何か”なのかも知れないし、夫婦の妄執、妄念に当てられて引き寄せられた“何か”なのかもしれない。分かっているのは、自由気ままに遊びたいだけという事だ」

藤澤は一気にまくし立てると、さらに続けた。

「あれは、遊びたかった。しかし幸いな事に、君はそちら方面には鈍感だった。そのため少しずつ君の魂に干渉し、静かに根を張っていたようだ。確か以前に、侵食されていると話した事があったろう、そういう意味だ。そんな折り、俺が君の部屋に泊まった。あれは最初、俺をやり過ごそうとしていたようだ。そのため俺も最初は全く気づかなかった。しかし“子供”だからか、我慢できなかったのだろう。俺と遊ぼうと干渉しだした。ところが、あれと遊ぶということは死を意味する。あちら側に連れて行かれるという事だ。そこで俺は逃げた」

僕自身、あれを目撃していなかったら、彼が狂っているとしか思えない話であった。「でも、なぜ次の日、いきなりあれが見えたんだろう」あれを目撃して以降、つきまとっていた疑問を藤澤にぶつけてみた。

「それは俺のせいでもある。但し俺がいなくても、近いうちにあれの歩く音が聞こえだし、声が聞こえ、見えるようになったのは確実だ。俺の話を聞いて時期が早まったというのがより正確だろう。君にあれの存在を僅かでも認識させて、今まで気にも止めていなかった部屋に興味を持たせてしまい、その好奇心と浸食された魂が過剰に反応した結果だ」

「好奇心は猫を殺す、か」僕はつぶやいた。

「しかしここで、不幸中の幸いとも言うべき状況に君はあった。先ほど言った、あれと夫婦の思惑の違いだよ。あれの方は今説明したように、遊びたい、つまりは“あちらの世界に連れて行きたい”なんだが、夫婦の方は、君の肉体を器として息子の再臨を願っている。すなわち“こちらの世界に戻って来て欲しい”とね。そのため互いの思惑が正反対で綱引きしたため、結果打ち消しあったのだと思う。夫婦は無自覚だろうが、あれの方はさぞや面食らっただろう」

ここで今日初めて、藤澤から笑みがこぼれた。

終幕

「ちなみに、息子が亡くなったのは30年以上前の事になる」

「え、30年前」

「そうだ。夫婦の妄執、妄念が暦どおりに年を取るならば、三十路過ぎの男性が選ばれなければおかしい。しかし先ほども言ったように、終着点は息子が成人する事。よってそこから先はない。だから君が選ばれたんだ。そして夫婦が、完全に妄執、妄念の世界で生きていなかったからこそ、君は助かった。夫の方は、贖罪の意味で妻に付き合っている内に徐々に染まったようだが、根源である妻でさえ息子以外の事は至って平凡な分別のある大人らしい。でなければ、君は生け贄としてその夫婦に殺されていたかもしれない。あるいは、殺されるまではなくとも、こうすんなりと引越はできなかっただろう」

確かに、あれと遭遇した直後に説明を求めに行った時や、僕が下宿を出て行くと申し入れた時のご夫婦は、妄執、妄念にはまり狂気に支配されているようには見えず、分かっているのだが仕方がないと、どこか諦観が入り交じった哀しい表情だった。

「あの家の事は、どうするの」思わずご夫婦の行く末が気になって、言葉が出た。

「どうするもこうするも、今回は君だから助言したのであって、見ず知らずの他人まで助けるつもりはない。心が壊れた人を治すなんて術を俺は知らないし、あれの成仏のさせ方なんてさらに埒外の話。あれの場合、突き当たりの部屋と関わりを持たなければほぼ無害だし、関わりを持ってしまったら後は運を天に任せるだけだね」

僕は同意を示す以外なかった。何しろ渦中にいた僕自身が逃げ出すことしか出来なかったのだから。今更何が出来るというのか。知り合いがあの下宿を候補として挙げた場合に全力で止めるくらいか、などど考えていると、藤澤から陽気な声音が聞こえてきた。

「半分以上は俺の当て推量だが、たぶん当たらずとも遠からずといったところかな。それにしても、君が助かって良かった。死んでは寝覚めが悪いからね。本当に良かった良かった」

「良かった」を連発する彼。藤澤としては、これでこの件の幕を引いたつもりなのだろう。

しかし僕は、敢えてもう一つ疑問に思っていることを口にした。

「藤澤って、千里眼」

「さあて」

これはフィクションです