ブラックフォレスト文書 (2)

ブラックフォレスト文書 (2)

1949年7月23日の事件

1951年の2年前、1949年7月23日に起こったと思われる事件では、一家全員が殺害されていたため、事件の発覚が犯行から1日ほど経ってからだった。状況的にはクーパー家の夫、妻、夫の父親の3人全員がドウ家の4人と同じように解体され、ガラスの箱に詰められていた。もちろん頭部も同様に処理されていた。

この時のゲイリー保安官は着任して6年目であり、ケンカによる傷害致死事件を手がけた事はあったが、死体損壊をも含んだ明らかな殺人で、さらに猟奇的な手口の事件を手がけるのは初めてであった。ルイス保安官補は死亡事件そのものが初めてだった。

尚、クーパー家の惨状を発見したのが、夫・ジョンの職場の同僚であり、地元紙スコット・ヘラルドに知人がいたため、事件の詳細が瞬く間に街中に知られる事になり、直ちに自警団が有志たちの手で結成された。そして街を挙げての犯人探しがはじまったが、人口800人に満たない街での捜査はあっという間に行き詰まった。

一応、日頃から素行の悪い者や、つまはじきにされている者が自警団に拘束される事はあったが、応援に駆けつけた郡警察とゲイリー保安官の共同名義で、組織立った最低6人からなる集団の犯行という公式見解が出されると、自警団は不承不承ながらも拘束した者を解き放つしかなかった。

素行の悪い者たちの中には、6人以上の徒党を組める連中もいたが、組織立った活動ができるほど統制のとれたものではなく、つまはじきにされている者の方は、そういった者の常として街では概ね孤立しており、徒党を組む事さえ出来ないと判断された。

さらに犯行現場が事細かに漏れ伝わっていた事も、変な憶測が入り込む余地がなく冤罪を防ぐ方向に作用しており、各臓器が識別しやすいように、それぞれを一度洗浄した後にガラスの箱に詰め込んだうえ、最後に部屋の掃除までしているという様は、人数だけ揃えても不可能な所業であると血の気の多い自警団の連中でも理解していた。

その結果、ゲイリー保安官も自警団も犯人グループを街の外に求め、街の周りの4000エーカー(約16.2平方キロメートル)の森林地帯を捜索する事になる。いくつか部外者の痕跡が発見されるが、犯人グループの手がかりに結びつく物は発見できなかった。そして街は次第に落ち着きを取り戻し、半年もすると形だけの犯人捜しが行われるだけとなった。

そういった経緯があっての2年後のドウ家の事件である。

これはフィクションです