物が多重に見える

物が多重に見える

言えるのは「好奇心はよせ」というくらい

少し前から、時より物が二重に見えるようになった。正確には二重では無く多重だが。

一時期は目や頭そのものの異常を疑って精密検査を受けてみたが、結果は「問題ナシ」。医者からは過労とストレスだろうという言葉が返ってきただけだった。

検査結果に問題がなかったため、私はそんなものかと考え、若干仕事をセーブしつつストレスにも気をつけるようにはしてみた。しかし、その後も時より物が多重に見える症状は改善されなかった。

最初の受診から3ヶ月が経過しても症状が改善されなかったので、今度は別の病院に足を運んでみた。果たして、そこでも同じ様な結果を告げられただけだった。

今から思えば、この時点で既に私は深みにはまっていた。この右手の状況が全てを物語っている。だからといって例え過去に遡れたとしても、過去の自分にどのようなアドバイスが出来るというのか。

──「好奇心はよせ」というくらいか。

物が多重に見えるのは、意識の集中を止め一瞬気を緩めた時。例えば、パソコンのディスプレイを凝視していて、ふとキーボード横にあるマグカップに手を伸ばそうと、視線をディスプレイ・オンリーからマグカップも含めた周辺部分まで焦点を緩くすると、そのマグカップが多重に見えるといった感じだ。

病院では「問題ナシ」で終わり、医者から言われた疲労やストレスにもできるだけ気をつけた。ところが改善するどころか、最初に気づいた時よりも頻度が高くなり、やがては「物が多重に見える状態」を意識して作り出せるようにまでなった。

そんななか、ある時気づいた。多重に見える一瞬のさらに一瞬、物の“影”が見える事に。

“影”といっても便宜的に影と呼んでいるだけで、実際何なのかは不明。自然現象の影とは違い、実際の物に薄いグレーのフィルターをかけたようなやや色味の違う物が多重に見える一瞬の一瞬だけ貌を出す。

それに気づいてからは、より一層「物が多重に見える状態」を作り出し、いつしかその“影”を触ってみたいとまで考えたが、そこに視線を完全に合わせてしまうと状態そのものが終わってしまうため、色々と試行錯誤の日々が続いた。

そして、たった今“影”を触った。いや正確にはそれは玄関のドアノブの“影”であるため、触ったというよりは掴んだといった方がいいだろう。ところが、“影”を掴んだ右の掌は何も感じない。何かを掴んでいるはずなのにその感触さえなく、手を動かす事はできないという奇妙な感覚に囚われている。

しかし、右手がどうなっているかを見ようとして、はたと気づいた。その状態を見るという事は「物が多重に見える状態」を終わらせてしまう事に。それに気づいてからは、恐怖が襲ってきた。見る事で右手が喪失してしまう恐怖に。

もちろん、この“影”を掴んでいると思っている右手は、ごく普通の単なるドアノブを掴んでいるだけなのかしれない。掴んでいる感触がないとか、右手を動かせないというのは、自分自身が暗示をかけているだけで本当は何も奇妙な事は何も起こっていないのかもしれない。

いや、「かもしれない」ではなく、本当に実際は何も起こっていないのだろう。それでも、右手を見るのは怖い。

なぜ“影”を掴む事にあれだけ一生懸命だったのか…。

相変わらず右手は奇妙な感覚のままだが、右腕の感覚を注意深く探ってみると手首から先が回転できる事に気づく。ドアノブである以上それは当然のことではあるが、あまりにも異常な状況下で思考が完全に停止していた。

このまま何気ない風を装い、いつものようにドアノブを回しドアを押し開け玄関を出て行けば、“暗示”も解けてこの奇妙な感覚や右手を失う恐怖が何でもなかったと事だと言えるのではないか、と別の暗示をかけようとはしたが、恐怖の方が勝っているようでどうしても踏ん切りが付かない。

そういった葛藤の中、右腕の感覚はドアノブを回しきった事を告げている。ならば、後はドアを押すだけであると思い、右腕を押してみた。右腕はそのまま何の抵抗もなく身体から離れていった。

ところが、目の前にあるドアはぴくりとも動いていない。そして、右腕の感覚もなくなった。

これはフィクションです

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