列車で出会った女性

列車で出会った女性

逃げられない

列車がトンネルに入った瞬間、通路を挟んで反対側に座っていた女性から、悲鳴とも呻き声ともつかぬ“声にならない声”が聞こえた。

いや、いくら通路を挟んだ反対側の近距離とはいえ、列車がトンネルに入った直後である。冷静に考えれば、トンネルに入った際の衝撃音や反響音、レールと車輪が発する音などで、大声でも出さなければ声など聞こえるはずもない。

僕は窓の方を向いており、トンネルに入って窓に車内が映り込んだ際、彼女が胸に手をやり背中を丸める動作を目撃したため、それによって聞こえもしない悲鳴が聞こえたように感じたのだろう。

もっともその前から、僕はその女性の事を気にかけていたのだから、窓に映り込んだ云々よりも、気配の異変に気づいただけなのかもしれないが。

品川駅のプラットフォームで列車が駅に滑り込んで来た折、座っていた彼女の横顔を窓越しに見て慌ててこの車両を追いかけ、ガラガラの車内であった事もこれ幸いといささか露骨ではあったが、敢えてその女性が座っているボックスシートの隣りに、進行方向とは反対向きに席を確保したのだ。彼女が進行方向を向いていたからである。

以降は、車窓を流れる景色を見るふりをしながら、時には横目で、時には窓に映る彼女を間接的に視るという形で、僕と同じ20代半ばと思われるその女性に全神経を集中させた。

列車はトンネルをすぐに抜け、車内はすぐに元のやや五月蠅い程度に落ち着いたが、僕は異変が何事も起きなかったというふりも出来ず、彼女をまじまじと見つめていた。

これまでよりも、より一層青白い顔をした女性は、僕の視線に気付くとすぐに視線を逸らし、空席となっている目の前の座席の背もたれと座面の境目を凝視し出した。手は相変わらず胸元に添えられていた。

意を決して僕は席を立つと、心配だけをしている事が伝わる口調になるよう気をつけ「大丈夫ですか」と問いかけ、自然な立ち居振る舞いに見えるよう細心の注意を払いながら通路を越えると、同じボックスシートの彼女とは斜め向かいの位置に移動した。

女性はこちらを見向きもせず正面斜め下に視線を固定したままで、僕が席を移動した事を激しく後悔し、元の席に戻る切っ掛けをどうしようか悩み出した頃、ようやく口を開いた。

「ごめんなさい、吃驚させてしまいましたね。逃げてきて、もう大丈夫かなと思っていたら、結局逃げ切れてない事が分かってしまって、思わず声が出たの」

「借金取りにでも追われているのでしょうか」なんとも間抜けで、不躾な問いかけをした事にまたもや後悔した。

彼女はそこで初めて僕の方に顔を向け、微かな笑みを一瞬浮かべたようだが、すぐに元の悲壮な表情になると、こう続けた。「いえ和枝がね、友だちの和枝がね、何処までも追いかけてくるの」

「和枝さんという方が…」と言いかけたところで、僕は思わずはっとして、慌てて肘掛けに左手を置いて身体を捻り、中腰になりながら恐る恐る背もたれから僅かに顔を出し、進行方向を伺った。果たしてそこには、同列3つ先のボックスシートに進行方向を向いて、どちらかというと通路側寄りに座っている男性の頭がひとつ見えるだけで、他には誰もいなかった。

女性は進行方向左側のボックスシートに座っており、そこから見える範囲を考え、背もたれの左側面と列車の窓の隙間から、件の和枝さんという人を目撃したのかと思ったが違ったようだ。

もしかしたら、背もたれに身を隠しているのかも知れないが、取り敢えず進行方向とは逆向きに身体を戻すと、今度はそちらの方面を見た。計5名の人々が座席に座っているのが確認できた。うち3名は知り合いなのであろう。車両最後部のこちらと同列のボックスシートににひと塊で座っており、全員女性であった。後の2名それぞれは男性で、通路挟んだ反対側の僕が元いたボックスシートの列に、個々に座っていた。

名前と友だちという言葉から、彼女と同性、同年代なのであろうと当たりを付けてみたが、それに該当する人は今見た限り誰もいなかった。和枝という名の男性、20も30も年上の友だち、あり得ない事ではないだろうが、そもそも彼女の位置から見える範囲にいたのは、どうやら僕だけのようである。

どういう事だろうと思いつつ、僕はそのまま腰を下ろし次の言葉を待った。

「──いえ、違うんです。ここにいるとかではなくて、目に飛び込んでくるんです」

「はあ」

「和枝という学生時代からの友だちがいまして、就職後も職場は違う所でしたが、それなりに付き合いは続いていたのです。しかし、9ヶ月ほど前に彼女を怒らせてしまい、それっきり向こうから連絡が来る事がなくなりました。それからは私の方も意地になってしまって、私も彼女には敢えて連絡を取らなくなりましたが、約3ヶ月後、今から半年前に、彼女が自殺したという連絡が彼女の母親からありました」

「へっ、じさつ」

「そうです、自殺です。頭のおかしな女だとお思いでしょう。そうです、おかしな女なんです。友だちを怒らせてしまって、そのあげく自殺に追い込んでしまった女なんです」

まずい女性に関わってしまったと思い、先ほどとは別の意味で元の席に戻ろうかと、いや、いっその事全く違う車両に移動した方がいいだろうと考えていたが、言葉はそのまま続いた。

「和枝を怒らせてしまった原因に、私の方は心当たりはありませんが、自殺に追い込んだのはそれが原因なのははっきりしています。彼女の四十九日が済んで何日か経って以降、自宅で私が鏡を見ると、彼女の顔が私と重なって見えるようになったからです。最初は出勤前に化粧をしようと鏡を見た時でした。そのため、その日は化粧どころではなくそのまま職場に行きました」

「鏡に。嗚呼、だから先ほどトンネルに入った時に。でも自殺した原因がはっきりしているのは、あなたの所に化けて出てくるからというのは短慮ではありませんか、あなたに助けを求めているのかも知れない、とは考えられませんか」と、何故か彼女の話に合わせる僕。

「いえ、あの顔は、目は、私に対して恨みを抱いている事が分かります。最初は自宅の鏡だけでしたが、その後暫くすると職場にある鏡でも見えるようになりました。一度は気の迷いで幻でも見えているのかと思い、気分転換に一度引っ越しをしてみましたが、二週間ほどで和枝が現れだしました。そして今は鏡だけでなく窓ガラスにも、私の顔が映るものには何にでも和枝が重なって映るようになりました」

彼女の切迫し、心の危うさも伝わってくる物言いに内心たじろぎながらも、好奇心も大いに刺激されたため、否定的な答えが返ってくると分かっていながらも「何か手立てはあるのですか」と、僕は聞かずにはいられなかった。

「分かりません。ただ、隣の地区に引っ越した時は二週間ほど和枝を見なくなりましたので、今回はもっと遠くに行ってみてはどうかと、こうして列車に乗りました。──でも駄目でした。先ほどまで、つまりこの列車に乗って既に何度かトンネルはくぐっておりまして、それまでは私の顔が映るだけでした。これで暫くは、もしかしたらずっと大丈夫かなと思っていた矢先に、先ほどのトンネルで見えてしまって、本当に驚いて心臓が飛び上がらんばかりでした。それに半日も経たないうちにという事もあり、どうしようもない無力感と絶望感を感じています」

それっきりその女性は口を閉ざした。

僕は暫く彼女を視ていたが、目の前にいるのに既に存在自体が希薄で、手助けしようにもどうしていいかも分からず、流石に車両を移る事はしなかったが、某駅に停車したのを合図に元いた席に戻った。

この車両からは人が乗り降りする事もなく、次の停車駅に向けて列車は出発した。僕は相変わらず元の席で彼女を気にしつつも、やがて舟を漕ぎはじめた。

列車がさらに次の駅に到着するような気配で僕は目を覚ました。すると例の女性が通路に出てくるところで、ちょうど視線があった。彼女はすぐに視線を外すと、その後も視線を合わせることなく、こう続けた。

「この駅で降ります。話を聞いていただいてありがとうございます。それでは」

僕は、ああとかううんといった曖昧な返事をして、女性がそのまま列車の進行方向に歩き出すのを、座席に座ったまま目で追っていた。瞬間、彼女の横顔に別の顔が重なるような感じがした。慌てて目を閉じ「錯覚だ」と強く言い聞かせ目を開けると、既に女性の顔はほぼ見えなくなっており、肩口までの長さの黒髪が揺れている事だけが、強く印象に残った。

「そうか、和枝さんが自殺したのはこの地か。だから彼女はここで降りて──」

誰にも説明されていないのに、僕はこの独白に強い確信を持っていた。そして、分かってしまった事に背筋が凍る思いをし、先ほど見た女性3人組の乗客がまだ乗っているのを確認すると、鏡を借りるべく彼女たちの元に足早に向かった。

これはフィクションです