とある旅館

とある旅館

部屋に他人の気配

彼は酒を一杯あおると、ちょっと思い詰めた感じで語り出した。

──先月、とある旅館に泊まったおり、自分一人しかいないはずの部屋に他の気配があるような気がして、深夜に目が覚めた。

薄目を開けてみると、目の前には月明かりを受けて、陰影だけが妙に強調された何かがいた。

瞬間、何が見えているのかさえ認識できていなかったが、考えるよりも早く、ほぼ本能に従って身体を右側に捻り、そのまま下方向にずり下がりながら上半身を起こし、その何かをまじまじと観察した。

枕と膝をつき合わせるような形で正座し、こちらの顔があった位置に覆い被さるようにしている老婆がいた。どうやら、逆さまになった老婆の顔が眼前にあったようだ。

「普通に起き上がっていたら、老婆とおでこをぶつけていたな」という感想が湧き起こった。そして、そんな感想を持った事に非常なおかしさを覚えた。

狂いそうになる一歩手前で辛うじて踏みとどまると、その老婆に声を掛けた。「この宿の方ですか」と。たぶん、声はかなり震えていたと思う。

声に反応し、徐々に顔を上げる老婆。わざと焦らしているかのように、本当にゆっくりとした動作だった。こちらは、それを呆けたようにただ見つめているだけで、やがて完全に老婆の顔がこちらを向くと、そこで目が覚めた。

朝日が部屋に差し込んでいた。どうやら、夢の中で目が覚める夢を見たようだった。

これで、「その特長の当てはまるお婆さんは、3年前に他界してます」といった話を聞く事ができれば、面白い事になるんだろうけど、わざわざ夢の話を親しい人ならともかく赤の他人にする事もないので、そのままその旅館を後にした。

その後、その老婆の夢を結構な頻度で見るようになった。しかも全く同じ夢を。幽霊なんて信じないけど、こうも続くと参る。今のところ睡眠不足以外、特に害らしいものはないけど、こんな事なら旅館の人に何かしら聞いておけばよかったと思う。

──ここで彼の話は途切れた。

「幽霊を信じてないのに、仮に旅館の人から幽霊話を聞いた場合はどうなったのだろう」という疑問を持ったが、混ぜっ返すほどの陽気な雰囲気でもなかったので、私はその事には敢えて触れず、いくつか彼に質問をした。

質問の答えに、何かしら私の記憶を刺激するものがあったが、自分自身でも要領を得なかったので、後日連絡するとして彼とは早々に別れた。

翌日、図書館に足を運び新聞縮刷版で、1年ほど前に隣県で起きた火事を調べてみた。そして、記憶を刺激したものの正体が分かった。さらに念のため、電話帳で彼が泊まったであろう旅館の住所を調べ、葉書を送ってみる事にした。

数日後やはりというべきか、宛先人不明で投函した葉書は戻ってきた。さて、彼には何と伝えようか。

これはフィクションです