ストーキング被害を訴えた男
歩道橋の下にいる黒の上着の男
「あそこに見えるだろう? ほら、道路渡った向こう側の歩道橋の下、黒い上着を着てる太ってるあれだよ」
耳打ちされ、“あれ”と思わしき方向を横目で見てみるが、自分にはそのような人影は見えない。しかし、否定すると激高しかねないほど、彼の眼鏡の奥の目は血走っており、切羽詰まった雰囲気を身に纏っていた。
彼というのは、ストーキングされているらしい、との話で調査を依頼してきた知人の知人だ。自分は文筆業、もしくはブロガー、もしくは何でも屋の自由業。時間の自由が利くので、こういった探偵業のような頼み事が、時折友人、知人経由で舞い込む。自分としてはブログのネタになればと、事実関係をある程度ぼかして掲載することを条件に、(たぶん)格安で事を引き受けている。
「ありゃ、まずったかな」と内心ほぞを噛んだ。これはストーキングではなく、彼の心の問題だと判断したからだ。
それにこちらを最初から見下した感じでどこか横柄だし、喫茶店の椅子に座るのもひと苦労な感じで、無理して腕を組んでいる感ありありのまま踏ん反り返っている様子に、何度吹き出しそうになった事か。言葉の端々には周囲を見下した言葉がみられ、プライベートでは決して関わりたくないタイプだが、一応この場は我慢、我慢と自分に言い聞かせた。
彼は相変わらず、歩道橋の方をチラチラと気にしながらも、“あれ”に気づいた事を悟られまいとして、変な所に力が入ったまま自分と肩を並べて歩いている。仮に自分にも“あれ”が見えていたならば、もっと自然に振る舞ってもらえないか?と釘を刺したいほどの身のこなしだったが、そんな事は最早どうでもよくて、どうしたら彼の依頼を反故にすることが出来るか、という事ばかり考えていた。
取り敢えずは、彼に話を合わせて駅で一旦別れて話を持ってきた知人に文句のひとつでもと思い、「あれに気づいたのはいつですか?」と彼に話を振った。
「いやだからさぁ、さっき言ったとおり先月の──」
「すみません。言葉足らずでした。今日はいつ頃から“あれ”はこちらを窺っているようですか?」
「──あれに気づいたのは、話を聞いて貰った喫茶店を出てからだね。出てからなんとなく気配があって周りを見てみたら、自分たちが歩いている側の歩道橋の陰にいたのが見えたんだ。まぁ、直ぐに消えたんだけど。それでちょっと安心してたら、歩道橋を通り過ぎた辺りでまた気配を感じて、気配が強い方向に目を向けたところやっぱりいた。歩道橋の反対側にいつの間にか移動してた」
「そうですか」と、出来るだけ彼に深刻そうに聞こえるように答えたつもりだったが、果たして彼にはどう聞こえたであろうか?などと、この件の終点は決まっているが、そこに至る道筋が見えないため、どうでもいい些末な事に思考を絡め取られてしまう自分がいる。
思考を一旦仕切り直すべく、右側にいる彼に視線を投げかけた。すると彼の肩越しに、ガラス張りのオフィスビルの入り口が目に入った。そして彼の云う「黒の上着」を着た人物が、その入り口に一瞬映ったような気がした。
目を見開いているのが自分でも分かった。そして状況を整理しようと、先ほどの彼の言葉を思い出し“あれ”は道路挟んで反対側の歩道橋の陰にいるという事は、自分の位置からは斜め左後方8時の方向にいる? あぁそれならば、ウインドウに映り込むのもしょうがないな、と納得しかけたその刹那、先ほどまで感じなかった怖気る様な気配を感じた。もちろん、8時の方向からである。
悪寒が走り鳥肌が立ち、心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えたが、僅かに好奇心も残っており、顔を左に振りつつ横目で“あれ”がいると思われる方向を探った。ところが、何もいなかった。但し、ハッキリと気配だけは感じ取れた。悪意のある気配を。
彼も一気に吹き出した悪意を感じ取ったのだろう。先ほどまでの歩道橋を窺う行動はぱたりと止み、その体躯に似合わない素早い足運びで、真っ直ぐ前を向きせかせかと歩き出した。
どういう事?と、この現象そのものについては未だ半信半疑ながらも、先ほどとは別の意味で、早く彼と縁を切らないとヤバい事になると確信した。
営業回りの途中に時間を作るから会ってくれないか、との条件で自分には全く土地勘のない、今回初めて利用した地下鉄の駅に今は引き返しているが、その道のりの遠い事、遠い事。彼はそれなりに利用している駅のようだが、最早彼を窺ってもその表情は読み取る事ができず、能面のようであった。たぶん自分も同じ表情をしていただろう。その間も“あれ”は付かず離れず付いてきている。
駅から待ち合わせの喫茶店まで、ゆっくり歩いて6、7分程度のはずなのに、帰りは倍の時間歩いても駅の入り口が見えてこない感じがした。何とか地下鉄の改札までたどり着くと、自分は安堵のため息を漏らした。彼はその体格とも相まって、肩でぜいぜい息をし、晩秋だというのに大粒の汗をハンドタオルで拭っていた。
ところで“あれ”の気配はというと、最後の方は歩く事だけに集中し逃げる事ばかりを考えて気が回らなかったが、駅に着くと安堵感と共に恐怖も復活したため、慌てて周囲を窺ってみたところ、どうやら気配はいつの間にか消えていた。
何とか乗り切ったと思った自分は、彼の息が整うのを待って、喫茶店で伺った話でちょっと心当たりがあるのでその件を調べてみると告げた。彼はこちらとは逆方向に向かうため、そのままこのホームで電車を待つと言う。そこで我々は、一旦別れる事にした。自分は線路を挟んだ向こう側のホームに向かうべく、ホーム右奥にある連絡通路の方へ向かった。
実のところ、「喫茶店での話で心当たりがある」というのは、彼から早く離れたいがための方便ではあったが、“あれ”そのものにはどことなく見覚えがあった。しかし、ここまで出てるのに!と、顎の下辺りを水平に叩きたい位に、あと一歩、イヤ半歩の所で記憶なのか、感覚なのかよく分からない何かが霧散してしまって、言い表す事が出来なかった。
自分が連絡通路の階段を下りだして直ぐに、彼が待っている側のホームに電車が来た。線路の下を通る連絡通路を渡りきって階段を上って目的のホームに出てみると、元いたホームから、そろそろ電車が出発するところであった。
連絡通路の出入り口から、ホームに沿って右方向にちょっと進んだ所で自分は立ち止まり、停車している電車を眺め彼の姿を何とはなしに探した。平日昼間という事もあり、ちらほら立っている乗客がいる程度の混み具合であったが、残念ながら彼の姿は見つける事ができなかった。
意外と長く停まってるもんだなと思っていると、ようやく電車が動き出した。今いるホームから見て右方向に。そして徐々に加速していく電車を漠然と見ていると、目の左端に違和感を覚えた。直感で最後尾の車両と分かった。
僅かの間を置いて、最後尾の車両が目の前を通過していった。もちろん乗っていた。つい先ほど見て目に焼き付いている人影。まさしく“あれ”だった。
しかし、先ほど道中で感じていた悪意は何故だか感じなかった。どうした事かと訝しんだが、彼から早急に離れるのがベストな選択であった事は間違いなかった。とはいえ、自分で見て経験した事を全て肯定するには、あまりにも異様な出来事であった。半ば呆然となりながらも、到着した電車に乗り座席に腰掛けると、ここで身体の震えが止まらなくなった。
幸いあちらの電車よりもさらに空いていたため、隣りに人が座る事もなく目的の駅までたどり着いたが、電車の座席で肩を抱いて小刻みに震えながら、縮こまっている中年のおっさんはさぞ不気味がられただろう。だからこそ、誰も隣りに座らなかったのかもしれないが。
当初はたどり着いた駅で、別の路線に乗り換えて直ぐに帰宅するつもりであったが、まだ震えが若干残っていたため、ひと休みする事にし、自動販売機で水を買ってホームのベンチに腰掛けた。ここで、彼を紹介してくれた知人に連絡する事も考えたが、スマホのキーボードをうまく操作できる自信がなかったので諦めた。そして、電車の中でも考えていた疑問をもう一度反芻した。
ストーカーって話じゃなかったのかよ。オカルト? 超自然現象!? 本当かよ? 自分の頭がヤバくなってる? 集団ヒステリー? いや、彼と一緒の時はそういう可能性もあるけど、あれって……彼の壊れた心…オカルト…?じゃ、あの電車のヤツは…?なぜ、いきなり見え出した?恐怖が見せた…?ストーカーじゃなくて……彼から伝染?しかし、彼は本当に嫌なヤツだった…悪意の塊みたいな…悪意…本質をさらに凝縮した感じで…映し出す鏡…じゃ、あれから伝染?…鏡…カガミ…ガラス…ウインドウ、共通点…幻影?感染した…超自然現象?…ガラス…眼鏡?メガネ…そもそも超自然現象って…インチキ…オカルト…錯覚…普通の自然現象?普通って?やっぱり超自然現象…?共通点?おかしくなった…悪意?見え出した共通点…共通点?そんなのあるの?おかしくなったのかなガラスに映ったあれ…彼に当てられた…オカルトなんだから…理屈なんて…いや、でもハッキリ見たし、幻覚?でも、あの強烈な悪意は?ガラスどう見てもあれはかれ。ストーカー? それも勘違い? 脳の悪戯? オカルトって…。今どきオカルトなんて…。悪意…。超自然現象? 悪戯? じゃ、あの悪意は?…。おかしい。脳が魅せる…ストーカー…おかると…おかしくない本とうの事?ほん当って?じゃ、何がせいじょう?ほんとう?うそって?オカルト、おかると、あく意、あくい、超自然げん────。
──たぶん、2時間ほどずっと座ってブツブツ呟いていたのだろう、駅員さんから声を掛けられて時間の経過に自分自身驚いて、平謝りしながら、慌てて目的の電車に飛び乗って帰ってきた。
そして翌日、彼に連絡してみたが彼とは連絡が付かなかった。彼を紹介してくれた知人からも時を置かず、彼と連絡が取れないとの知らせが入った。その後3日ほど経っても連絡が付かないようで、どうやら会社も無断欠勤しているらしい。
一週間ほど待って、この件から手を引く事を知人に伝えた。彼と連絡が取れない以上どうしようもないので、知人の方がかえって恐縮した。自分としては、知人にはもちろん彼にも申し訳ないが、今回の件は巻き込まれなくて本当に良かったと思っている。
あの電車で見た彼の姿は、もう忘れる事にした。
これはフィクションです
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