ドラえもんは毎回ポケットを紛失すべし(※個人の感想です)

ドラえもんは毎回ポケットを紛失すべし(※個人の感想です)

テキオー灯は定番の道具か?

WOWOWで『37作一挙放送!史上最大の映画ドラえもんまつり』をやっており順次観ているが、結構つらくなってきたw

改めて作品を観てみると、映画館やテレビで『のび太の恐竜』「のび太の宇宙開拓史』『のび太の大魔境』『のび太の海底鬼岩城』『のび太の宇宙小戦争(リトル・スター・ウォーズ)』『のび太と鉄人兵団』は観た覚えがあり、原作の漫画も『コロコロ』で同じように鉄人兵団あたりまでは読んでいた記憶がある。

そして現在、図らずも“一気観”をしているわけだが、ひみつ道具が便利すぎるが故に、作品を観れば観るほどフラストレーションが溜まるw いや、個々の作品自体がどうこう云っているわけではない(ある作品に関しては云っているけど・後述)。つまり連続して観ているため、以前の作品で出てきたあの道具を使えばいいじゃん!とか、あの道具をなぜココで使わない?といった視聴者側の「知の蓄積」がより強く反映され、作品を楽しむどころか登場人物たちにも同様に「知の蓄積」を求めてしまうのである。

元々の楽しみ方とでもいうべき「年一回のお祭り」として、一年に一作品のペースで観ていたならば、ここまでフラストレーションは溜まらなかったであろうが、それでものび太はともかく、ドラえもんでさえ「知の蓄積」があったりなかったりしているのでは、観ていて辛いものがある。これが一作品ずつ知識がリセットされているのであればもう少し納得できるかもしれない。どこでもドア、タケコプターなどの定番道具ついては、登場人物もあって当たり前としているんだから「あの道具をなぜ使わない?」となるのは至極当然であろう。

以下、ネタバレ注意!

『のび太と銀河超特急(エクスプレス)』ではのび太自身が過去にいろいろな冒険をしてきた事に言及しており、さらに次作の『のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記』では、『のび太と銀河超特急(エクスプレス)』のアトラクションで使われていた拳銃をドラえもんが持ってきている。それなのになぜ?という感じである。

そういった意味で『のび太の南海大冒険』は楽しめた(これ以降の作品は未だ観ていない)。特に『のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記』の敵役である熊虎鬼五郎がねじ巻き都市に迷い込むシーンや、その後大量生産された熊虎鬼五郎がねじ巻き都市とのび太の住む部屋&街を土足で行き来したのに、誰もその異変に気づかない事、チンパンジーがパンダと標本骸骨、小便小僧を連れてくるなど、道具の件と相まってフラストレーションがピークになっただけに(ホクロさんの存在は唯一の良心)、この『のび太の南海大冒険』におけるポケットの紛失により、使用できる道具が制限されてしまうシナリオ運びには好感が持てた。ポケットがないという状況は以前の作品でも何回かあったが、そこに至る状況の積み重ねがより自然に思えた。よって、手元に残った道具がことごとく“使える道具”であったことについては許容範囲だw

そして、キャプテン・キッドがジャイアンの蛮勇を叱るなど、オトナがオトナとしてキチンと役目を果たしている事もにも注目したい。悪意を持ったオトナ相手にのび太たちが立ち向かうという構図の中で、これまでものび太の側にもオトナは登場しているのだが、ほとんど物語を構成する上での記号としての役割しかなく、のび太側のオトナでここまで人格を与えられた人物は記憶にない。それ故、ちょっとした驚きだった。のび太たちが主人公の冒険譚である以上、物語を構成するためだけに存在する記号的なオトナも必須の要素であるとは思う。決してキャプテン・キッドのようなキャラを毎回配置すべしと云っているわけではない、念のため。

これで、ドラえもん映画の現時点でのマイ・ベストは『のび太の恐竜』から『のび太の南海大冒険』かなという感じである。ただ惜しむらくは、エンディングの吉川ひなのの歌。あまりにもあれ過ぎてw 尚、この記事を書くためにちょこちょこ見直していて、そういえばポケットはどうなったんだっけ?とラストシーンを改めて観ていたら、エンディングに入った後のシークエンスで、押し入れからスペアポケットを引っ張り出してきた事を付け加えておく。

以上、軽い気持ちではじめた“一気観”が予想以上に苦行になりつつあった時期に、『のび太の南海大冒険』を観て溜飲が下がった事が嬉しくて、記事を書いてみた。はてさて、この後の作品はどうなる事やら。